スプラトゥーンのエモの部分

 スプラトゥーンについてこんなことを言うのもあまり聞かないけど、多感な時期にあのゲームで遊んだ、遊び倒したのはよかったなと思う。
 作中のイカはスカした若者という設定があって、街は箱庭っぽい作りで、閉じこもっている。閉じこもった中にストリートがある。ストリート的な空気をコンパクトにギュッとまとめた空間がこのハイカラシティでありスクエアだった(僕が初めて遊んだのは『2』なので、スクエアが僕の初体験である)。
 ゲーム全体にプレイヤーの分身としてのイカがあって、主人公、一人称。マイキャラとしての存在感がある。
 そこに好みのギアを着せて遊ぶ。ブキのこだわりを押し付ける。当然対戦ゲームなので、装備性能へのこだわりが生まれる。そのこだわりはそのまま、現実世界の服や持ち物へのこだわりにつながるわけだ。見てくれを気にしたり、気にしなかったり、これは機能だと嘯いてみたりするところ。そこがリアルだと感じる。ホントのところは見てくれも機能も、こだわりが絡めば同じようなものだ。どちらも実利ではなく、ただのこだわりにすぎない。特に昔の僕はそうだったと思う。

 街があって、音楽がある。スプラトゥーンの大事なところの一つだと思う。ぼくは大して音楽ファンというわけでもないが、高校生の頃むやみにタワーレコードに憧れて、そこを漠然といい場所だと思って、通ったりしていた。たまになんらかのアルバムを買って帰る。いわゆるジャケ買い、をしたことがないわけではない。でも、そのくらい。
 スプラトゥーンにはそのタワレコへの憧れと同じものがあって、要は、Jロック・オルタナ的なところ。BGMがそのへんのツボをかなり抑えており(タワレコとコラボもしたし)、スカした感じの十代がそういう店に入り浸る。
 僕はずっとそうなりたかった。スカした感じで、タワレコに通いたかった。そうなりたかったがそうならなかった自分を、画面のイカに見ている。

 たしか『スプラトゥーン』無印のタイトル画面は壁にポスターが貼ってあるようなマイルーム的な画面だったが、ゲーム本編にいっこうにマイルーム的な要素は出てこない。あっても良いのにと思うが、僕はない方が良いと思う。ようは、自分の部屋があると生活感が出てしまう。 スプラトゥーンのマイキャラにあんまり生活感は見えてほしくない。なぜなら、十代の頃に思い描いた「そうなりたかった自分」には、生活感は一切含まれていないからだ。自分の家とか、学校とか、そういうものは含まれない。ストリート、タワレコ。なりたかったもののなりたい部分だけを抽出した分身として、僕はイカを見ている。

 そういう見方をしているから、僕はスプラトゥーンからエモを抜いては語ることができない。純粋な対戦ゲームプラットフォームとしてスプラトゥーンを見ているわけではないのだ。

九日 Nine Sols遊んだ

九日、すごくいいテーマでゲームを作っている。ホラー的な、惨劇を惨劇としてウッヒョ〜と楽しませていただきつつ、惨劇の最中だからこそ活きるテーマが展開される。
これは、メトロイドヴァニアでないとこの味は出きらないと思う。

ここはどこなの?崑崙?新崑崙?蒼藍星って地球だよね?が、曖昧なまま話が進んでいくわけですけど、ハイテク建築物と古代遺跡、それに天然の洞窟が入り乱れて登場する。メトロイドヴァニアである甲斐がある。

しかし、ボーダーランズのダウンロード待ちのつなぎにインストールしたこのゲームを、こんなにのめり込んで遊ぶとは思わなかった。おかげでボーダーランズは手付かずのまま。年末年始のゲームは結局これ一本になってしまった。

科学。科学万能を信じた羿。易公。そして、無為。

「もし、初めからすべてが定められていたとしたら?」
「天禍も、古木樹から借りていたものを返すだけなのかも」

「本当に意味のあることなんてあったか?」
「僕は、いろんな楽しいことや苦しいことの組み合わせに意味があるんだと思う」
「生きていること自体が、意味だと」

なら、羿のこれまでの出来事には。
誰も間違っていない。
易公でさえも?

では、何があったのだろう。意味とは。
勝てないと途中からわかっていて続ける将棋にも、軒々の言う通り意味があった。
「兄さんに勝ちたかったんじゃないよ。僕はただ、兄さんと将棋がしたかっただけ」

妹と生き別れたことは。
なぜ生き別れねばならなかった。
妹と生き別れたことにも、意味があったのか?
それは、生き別れたこと自体、ふたりが別々の道を歩んでいること自体が意味だったと言うのか。
あまりに残酷ではないか。
なんのためでもない。ただそのためだけに。
そう、初めから定められていたとしたら。

初めから無為であれば。
言ってしまえば、奇跡的に古木樹と融合した羿を、「奇跡だ」と片付けていれば、それでよかったのかもしれません。
易公は、羿の奇跡にさらなる可能性を見出した。
太陽人は古木樹のもと、星の力で永遠となることができる。
それを追求してしまった。
やはりわれわれ猿人からすると、ここに倫理的欠陥があると言わざるを得ない感じがする。
一番悪いのは易公である、というのがプレイヤーとしての自然な感覚(だし、太陽を射る者エンドでは、往生際の悪い魔王みたいな演出で……)。
けれども、古木樹とはおそらく「タオ」に連なる存在であって、それは偉大なるもの。そこに太陽人が接続できるとしたら、少なくとも、穢れた感じはない。
そこに、科学だけで到達できると思ってしまったのが、易公の誤りだったといえる。科学の外側にあるものに、科学で辿り着こうとした。易公の失敗は、このように言えると思う。

あるいは、易公自身、最後の戦いで「我々は自らの運命を、愚かな野獣が自分の尻尾を追い回すように追いかけ続けてきた」とか言う。
これが非常にまずいなと思う。
ようは、生老病死そのものを軽んじている。
人が老いることも死ぬことも、単なる、解決すべき科学的問題としか思っていない。人生や生命というそれ自体を、まともに考えることができていない。
そんな人間による不老不死の研究は、頓挫すべくして頓挫し、天禍によって罰せられた……とかいうのは、流石に宿命論的すぎるだろうか。


羿も羿で、まずいことをしている。
人の精神を夢の中に閉じ込めておく。肉体は眠らせておく。天禍研究のための、壮大な時間稼ぎ。
易公から生じた綻びを、なんとか皆で繕おうとした。
繕うためにまた別のものを繕った。
そこにも綻びがあった。
永生炉プロジェクトは、概してそのようなものだった。
蚨蝶は「罪に向き合った」と言った。「次はあなたの番」とも。罪。
蚨蝶の罪は偽ったこと。では、羿の罪とは何か。
羿は罪を犯したのだろうか。
猿人を捕らえて生体コンピューターに仕立て上げたのは、我々猿人からするとめちゃくちゃやばいことなのだけど、太陽人目線では大したことではない。「動物を生かしたまま演算装置として利用するなんて、ちょっとかわいそうじゃない?」くらいの感覚だと思う。コホも大体そういう認識。これくらいの認識で人間牧場を作ってしまうのも太陽人の恐ろしいところですが。

羿も粛々と、他の議会のメンバーと同じように、真相を知ってなお、天禍克服のために働いていればよかったのでしょうか。
そうかもしれない。
羿と二人なら、易公も、狂うことはなかったのかもしれない。
二人の性格上、とても難しそうではありますが。
まず何より、当時の羿の強情な正当性というか、正しいものが正しい、他は間違っている、という言い草が、多分易公との和解を許さない。
加えて家族への情も厚い(素直じゃないところがありますが)。
羿にとっては、易公が家族を殺したのだという認識は揺るがない。
彼が真相を知った時点で、易公、議会との決別はどうあっても避けられないと思う。
易公もだいぶ頑固なようですから。

加えて議会、易公は、天禍の真相を世間に明かしてはいないでしょう。
「全部お前だったんだな!」というあの回想が、いつのものなのかがはっきりしませんが。
新崑崙に辿り着いたあとなのか、どうなのか。
多分、羿が真相を知って大人しくしているはずはないでしょうから、羿が真相を知ったのは新崑崙到達後だったのかな、と思っています。
もし、蓬莱にいる頃にこのことを知っていたら、羿は蓬莱中にこのことを知らしめんと奔走したことでしょう。
自らの、多大なリスクを孕んだ永生炉プロジェクトがもう帰還不能点を超えたところで、羿は天禍の真相を知った。「クソッタレの議会」が、すべての元凶であると知った。

で、オープニングムービー。

桃花村らしきところで易公が羿を追い詰めています。なぜこの場所なのか……というのは、ゲーム上の演出な部分も多々あると思います(桃花村的なビジュアル、世界観のゲームで、主人公は妖怪的なヤツなのね〜みたいなミスリード)。
が、彼はなぜここにきたのでしょうか。
そもそも、真相を知り、議会を裏切ったとして、彼に何ができたでしょうか?
まさか初めから太陽を皆殺しにしようとはしないはずです。流石にそこまで羿もやらない。太陽を全員殺してやる、などというのは、易公に殺され、桃花村に潜み、何もかもから遠ざかって、恨みが募ったり、とにかく色々あった結果そうなっただけで、真相を知って議会をいきなり皆殺しにしようとはしないと思う。

天禍の真実を知ったところで、当時の彼には多分、あんまりできることがなかった。
でも、易公が最終的に彼を殺すくらいですから、多分羿は何か無茶なことをした。 猿人牧場を荒らすとか、研究所の設備を破壊するとか。きっとやぶれかぶれで、とんでもないことをして、易公に殺された。

殺されて、蘇って、そのあと。

「お前は、あいつらの仲間だろう?」と、コホに爪を向けるシーン。
あれかなりショッキングでしたね。初見のプレイヤーでも、コホがいいやつなのはわかる。でもコホはいいやつだから、友達を見捨てたのだと素直に謝って、また羿の友達でいられる。よかった。

まあ、そのあとで、太陽を次々殺していくのですが。
勾芒にあそこまでの仕打ちをする必要があったか。無かったと思う。あれは、羿の歪んだ復讐心が出ている。僕個人としてはリョナじみていて非常にありがたかったですが。あんなことをする必要はなかった。
太陽を殺して回ったのは明確に罪と言えると思う。

それにしても、「もしついてこないなら、俺には妹なんていなかったことにする」という、あれ、本当に、恒への別れの言葉として、最低最悪の選択だなと。ここだけは本当に、100%羿が悪い。この言葉を選んだのは本当に良くない。よくないぞ羿。
恒は何よりも誰よりも、兄さんに忘れてほしくないはずなのに。遠くに行っても覚えているよ、となぜ言えない羿。たった一人の愛する妹に……
まあ、別れを認めたくない羿の、素直じゃないところが出ちゃったのでしょう。

羿の罪はなんだったのだろう?という話でしたが、
エピックな罪は犯していないと思う。
強いていうなら、自信過剰、強情だったくらいで、新崑崙のアイデアの発案者でありながら、本編の新崑崙の悲劇に加担したかというと、実はそうでもないと思う。
全てを始めた人物でありながら。意外と。

キーパーソン、易公の話に戻る。

易公は明らかに、自らの罪と向き合うことをやめている。
開き直り、実験の重大な失敗である変異体を太陽人の新たなる一歩だと言って肯定しようとしている。
明らかに、変異体は望まぬ変化、好ましくない変化、異変、異常、冒涜ですらあるにも関わらず。
記録では(休眠を挟んでいるとはいえ)数百年に渡り、天禍の研究を続けていたようだ。
おそらく易公の最大の過ちは、天禍を生み出してしまったことよりも、自らの失敗を正当化しようとしたことにある。

もしも、易公と羿がふたたび協力して、天禍を収束に導こうと努力したならば。
しかし、そんな未来はあり得ただろうか?
歴史にイフはない、とかいう安直な文句に頼らず、考えてみたとして、あり得ただろうか。
もしも肉親を、羿が天禍で失っていなかったら。
あるいは、未熟な技術で、ひとり蒼砂ドローンなど作っていなかったら。そもそも古木樹との融合すら起こらなかった。
易公が不老不死なんて目指さなければ。
何かがなければ、まだ蓬莱で太陽人の時代は続いていたかもしれない。
しかし、だれかを責める理由がどこにあろうか?
すべてが、初めから定まっていたとしたら?
そう言いたくなるのもわかる。
でも、それも一つの逃避だと思う。
本当のところ、何も事前に定められてなどいない。
運命などない。
ただ、あらゆる出来事が連なって、太陽人は滅んだのだ。

誰が悪かったと定めることのできない悲劇の中で、結果的に太陽人は滅んでしまった。
新崑崙も結局、終末の先延ばしにすぎなかった。
蓬莱帰郷エンドでは本当にただそれだけで終わってしまうのだけれど、太陽を射る者エンドでは、太陽人のいた証は形を変えて残るのだ。
何もかも初めからなければよかったと言いたくなる悲劇の中で、唯一未来に残るのが、地球の軒々たちなのだ。
実にいいエンディングだった。

コーポのVは一番いい味がする【サイバーパンク2077】

サイバーパンク2077のメジャーアップデートが来たのはいつだったかな。もう一昨年とか、そのくらいかもしれない。このゲームが発売した頃すぐに買って遊んでいた。ググって確認してみたら、発売は2020年らしい。発売して4年。もうそんなになる。 当時の評判はまあ色々だったけれど、おおむね、すごいゲームで面白いんだけど惜しいところが多すぎるよねって感じだった。おれもそう思った。シナリオもNPCもナイトシティ自体もめちゃくちゃいいんだけど、バグが多かったりとりあえず実装しました的な特に面白くない要素があったり、一番ひどかったのはPS4でのパフォーマンス問題で、こちらは返金騒動にもなったりした。 まあそれでもものすごく売れたので、発売以降継続的にアップデートが行われてきた。こういうやり方でいいゲームになった例はいくつかあるらしい。おれは「No Man’s Sky」を発売数年後に初めて遊んだんだけど、めちゃくちゃ面白かった。後で聞いたら、発売当初は全然酷い評価だったらしい。

サイバーパンク2077の場合は、特にパークまわりが全く一新された。回復アイテムの仕組みも変わった。まあ、前は正直、大量にエアハイポかき集めて一生吸いながら近接格闘してればアダム・スマッシャーも倒せたので、以前の回復アイテムの仕組みはあんまり良くなかっただろう。 パークまわりは、以前のがそんなに際立って悪かったとも言わないけど、明らかに今の仕組みの方が面白くはあると思う。旧システムはもっと大味だった気がする。今のシステムは、能力値ポイントを極端に振るうまみが強調されている感じがする。じゃあ今回どういう方向にポイントを振るかなんだけど、おれはいつもこういう時、機動力と妨害性能をとりがちで、古典的なクラス分類でいくと盗賊とかそういうのが好きなんだと思う。 今回のVは知能と反応力に振るつもりなので、パークのツリーを見ると、どうやら最終的には目に入った相手に片っ端からクイックハックをアップロードして神経を焼いたり武器を使えなくしたりしながら、空中で二段ジャンプしてダッシュしてブレードで弾丸を弾いてアサルトライフルの精密射撃で敵を蜂の巣にできるみたいだ。楽しみ。

「今やボクシングの世界も頭蓋骨を強化するのが当たり前だ、衝撃の75パーセントも吸収して何がボクシングだ」とヴィクターはリパークリニックの机で嘆いているけれども、一方で、ストリートの小競り合いはこういう方向に進化していたりする。これはこれでエキサイティングじゃないか。ボクサーのサイバーウェアも、衝撃吸収じゃなくてクロームの拳をロケットでぶっ放す方向に行ったりしないんだろうか。ま、それこそ、ボクシングがボクシングではなくなってしまう。多分、攻撃性能を高めるような身体改造はボクシングの団体が制限をかけているんだろう。 これだけサイバネが普通のことになっていると、スポーツの世界は色々難しそうだ。 たとえば野球はどうだろう。まあ、ボールを打つのは変わりようがないとしても、選手の肉体はいじり放題なわけだから、たとえばアイインプラントで動体視力を強化して、筋肉か脳かに視覚からのフィードバックをもとに球の軌道を予測してバッティングをアシストするとか、そういうことはできちゃう。投手の方だって、腕と指先に変なパーツをつければ、魔球の一つやふたつ投げられるだろう。野手もサーボとかを脚につければ一飛び10メートルくらいのダイビングキャッチなんてできるだろうし、それこそ、走塁なんか、監督の脳みそに積まれたサイバーデッキで集中演算したほうが、走者各自で諸々判断するよりうまくいくかもしれない。頭が良くないと野球には向いてないと昔は言ってたんだよなんて話をイチローさんがつい最近母校でしたそうだけども、これはその対極に当たる。 まあ、2077年のボクシングは少なくとも、理性ある感じでまだボクシングの体を保ってるみたいだ。だからその辺は、意外とうまくいっているのかもしれない。社会の方が、サイバネで色々問題が起きているとしても。むしろだからこそ、スポーツの世界は聖域というか、人間本来のパワーを冒してはならないみたいな意識が強く働きやすいのかもしれない。監督の脳みその演算能力で最適化された野球なんて絶対観たくないだろうし。

ナイトシティで意外なのは、警察、つまりNCPDがかなり良識あって、そこそこ力を持っている機関なところだ。どうも、企業からの賄賂に負けたりすることはあっても、末端の警察官には良心的な人が珍しくない。それに、特殊部隊のマックス・タックはナイトシティの力関係の中で最上位に立っている。末法めいたナイトシティでも、隅々まで目は届かなくても、そこら辺のソロに治安維持活動を無作為にお願いするような事態になっていたとしても、一応警察は機能しているのだ。 主人公のVがアウトロー側の人間だからそう見えるのかもしれないけど、NCPDみたいな、きちんと社会的正義を実行する側の方が少数派的プライドというか、全体的に満遍なく正しい社会が運営されていてその中にはぐれもの的にアウトローがいるとかではなくて、社会が全体的にめちゃくちゃでアウトローの方が多いその中に、まだ国家とか州とかのまともな力を振るう存在がいる。それがNCPDの立ち位置。 そう思うので、NCPDがどんぱちやってたら積極的に加勢することにしている。通りすがりの傭兵もどきがギャングの頭をブチ抜いていくのを、NCPD的にはどう処理しているんだろうか。ゲームシステム的には当然犯罪行為にはならない。見逃されているんだろう。見逃すどころか、謝礼のエディーがもらえたりする。頭をブチ抜くこちらと、ブチ抜かれるギャングの違いは、指名手配犯としてデータベースに載っているかどうかだ。多分、NCPDの処理上、最も重要なのはそこである。指名手配犯でない人間が、指名手配犯を殺したら、いかなる状況であれ、指名手配犯でない方を正しいものとする。ナイトシティには恐ろしい数の指名手配犯がいて、まあ路地にちょっと入れば指名手配犯、つまりギャングの末端構成員とかが4,5人たむろしている。スキャナーで罪状を確認すると、どうもちょっとした窃盗とか、人を殺したりしてなくても、指名手配犯になっている。ここは完全にNCPDの力が及ばないので、まあ道ゆくみなさん気が向いたら適当にこいつのこと処理してくれ、ってな感じなのだろう。 指名手配犯だけを狙った単なるシリアルキラーが、そこらじゅうにいそうだ。しかもそいつは、NCPDによれば、犯罪者ではない。

そういう街にいるから、Vは良くも悪くも自由な存在だ。ニューゲーム直後のキャラメイクで、Vのライフパス、つまり経歴を選択できる。ノーマッド、ストリート、コーポレートの三択で、ぶっちゃけ、物語的に一番美味しいのはコーポレートだ。なんたってアラサカ、しかも防諜部とかいう物騒な部署に身を置いていた過去を負わせられるわけだから。上司のジェンキンスは問題解決のために会議出席者を全員殺して「猶予を得ました」とか言ってのけるやべーやつだし、そのジェンキンスのお気に入りのVも相当やべーことやってきたに違いない。ただ、どうも、本心からというか、根っからのやべーやつではないっぽいことは、イベントの端々から見て取れるけれども、出世のためならしょうがないくらいは思ってそうだ。 そういう経歴があるから、ストリートにのさばるギャングを不意に撃ち殺すくらいは、元々そういう街だし、平気でやれそうだ。皆殺しにしたいとまでは思ってないだろうけど、身に危険を感じなくても金のために積極的にギャングを制圧する、安全に制圧するには先手を打って殺すのが一番早い、まあ最後の一人くらいは殺さなくても適当に殴って黙らせればいいだろう。今回のVは基本的にそういう感じでいる。 まあ、何より、なりふり構っている時間がないわけだから。頭の生体チップに体を乗っ取られる前に、何をしてでも生き延びなきゃいけない。 会話の選択肢も、元コーポの根性を意識して選ぶことにしている。一人で解決できることは、一人でやろうとする。協力が必要なら誰にでもズケズケと頼み込む。状況次第では演技も得意。隣の仲間に軽蔑されても、敵から情報を引き出すことを優先する。その場の印象よりも、問題解決に最善かどうか。ただし、そういう自分の振る舞いには自覚的で、いいことだとはあんまり思っていない。そんな塩梅で。 このゲームの会話は本当に出来が良くて、これくらいのロールプレイならゲームの側もどんどん応えてくれる。

ディアブロのストーリーが終わったら、ディアブロが始まる

敵をなぎ倒しては、ドロップ品を集める。ドロップ品のオプションに一喜一憂する。
レアドロップを狙うというギャンブル的遊び。
レアドロップはビカビカ光るし落ちた時にでかい音が鳴る。ひとたびワンボタンでダンジョンを高速周回可能なスキルセットが揃えば、ボタンを押すとたまに派手な演出が出て、それに喜ぶゲームになる。
それは「ディアブロ」シリーズの一側面である。もちろん、それだけのゲームではない。

「ディアブロ Ⅳ」のストーリーを完走した。
悪魔リリスと天使イナリウスはどちらもかなり人間くさい。憎悪の化身とか、救いの使徒とかでは全然ない。

かつて、戦いに倦み、共にサンクチュアリを築き、人間を生み出した、文字通りの父と母。悪魔と、天使。
イナリウスは全編通して信用ならなかった。独善的で、傲慢で、自分勝手だった。
一方のリリスは、うっかりするとその虐殺の所業を忘れて、あーなんかリリスに従ってもいいかもなあ……と思うくらい、母性があった。
人間のことを顧みずに人間のためと嘯いて、自分勝手な戦いに酔う天使と、人間のことを思い、人間の存続のために人間を殺す悪魔。どちらが正しいのだろうか?

本作のカットシーンの最大の山場であり、いちばんいいシーンでもあったのは、リリスがイナリウスの翼をもいで殺すところだ。
リリスとイナリウスはひとしきり口論する。というか、イナリウスは勝手に絶望し、リリスがイナリウスにこんこんと事実を告げる感じだ。イナリウスは哀れだった。
リリスはイナリウスの一撃を避けもせず、体を貫かれながらも、イナリウスの光の翼をメキメキへし折り、殺す。
「貴様には地獄がお似合いだ」
当の悪魔が天使にそれを言う。かつて、志を共にした相手に。いろいろと味わい深い。

余談だが、ディアブロ世界の天使の翼は、いわゆる翼的な見た目ではない。光の触手みたいなのがにょろにょろと何本も背中から伸びていて、ちょっと気持ち悪い。
天使がことあるごとに放つ光の色は、いつも真っ白なばかりで、暖かさを感じられない。悪魔はその光に怯えるが、人間にとってもまた、ただ眩しいだけの目障りな光だ。
ディアブロ世界の天使というのは、そういうやつらだ。

さて、リリスを殺すと息巻いていたイナリウスは哀れに死に、彼に付き従った大聖堂の騎士たちも死ぬ。
ストーリー最終盤においては最終的に、やはり主人公が、本作の看板悪魔リリス、人類の文字通りの母と戦い、彼女を殺すことになる。
リリスは本気だった。人間を思う心に嘘偽りはない。人間を導き、地獄の三大悪を滅ぼし、天使と悪魔の永劫の戦いに終止符を打つつもりだった。
「わらわの手を取るだけでよい」
「おまえはサンクチュアリで一番の守護者になれるぞ」
リリスの心象世界で語られたこの声は、「悪魔の囁き」などではない。人類を思う母としての、我が子への導きの声だったのだ。
母は悪魔なのも事実だが。
正直おれとしては、ここでリリスの手を取って、母の尖兵として戦いたかった。おれが主人公だったら多分そうする。
まあ、そんなことをしてしまっては、天使と悪魔のはざまの勇者であるところの、「ディアブロ」シリーズの主人公はつとまらない。
「お前の手など、取らない」
そう言って主人公はリリスを殺す。
(ラスボスとしてのリリスはしっかり強かった。二回殺された。)

リリスは本作看板キャラクターなわけだが、実際かなりいいキャラをしていた。魅力がある。やってることは悪魔そのものなのに、「人類の母」感がちゃんとあった。
対して、いわばイナリウスはダメ親父だろうか。あんたを父と思ったことはない!的な台詞を吐かれそうな。そんな親父。
彼らを中心に語られる物語であったので、その彼らが人間味あるキャラクターだったのはとても良かった。
「ディアブロ Ⅲ」の天使と悪魔は(堕天したティラエルを除いて)、もっと、なんか漠然と脅威、巨大な力でしかなかった気がする。
僕は「Ⅲ」しかちゃんと遊んでいないから、天使と悪魔の永劫の戦いの背景、そして、人間の住むこの世界がサンクチュアリと呼ばれる理由もあまりよく知らなかった。
もちろん「Ⅲ」でもテキスト的にはサンクチュアリのおこりを説明はしてくれていたが、リリスとイナリウスのあれこれ、もつれ、を物語としてしっかり体験はしていなかった。
ディアブロ世界の叙情的な部分をしっかり味わえたので、「Ⅳ」を遊んで良かったと思う。

ストーリーを完走したら、いよいよ本格的に本作のシステムの部分をしゃぶりつくすことになる。
装備のドロップと能力調整、でかすぎるパラゴンスキルボード。狂気の高難度ダンジョン、それを突破するためのパワー。
個人的にはヘルタイドがお気に入りだ。本作のフィールドの広さと、オンラインであることによる他プレイヤーの存在が活きている。たぶんパーティで遊ぶともっと楽しい。

本作では装備のレジェンダリー効果を自由に付け替えられる。「Ⅲ」でできたっけ、いや、たぶんできなかった。
今回はゴールドさえあれば好みの装備がいくらでも作れるんだねぇと安心したのだが、そうではなかった。
やはりというべきか、勘弁してくれというべきか。ドロップ品というものの醍醐味であるのだが、ようは「天然モノ」のほうが強いのである。
ドロップ品の純粋な効果ではダメージ+80%が出る可能性があるが、ゴールドを使って自由に手で付与する場合は最大でも+40%、とか。
とはいえ、ボーナス数値が低くとも、レジェンダリー効果のシナジーを意識しながら装備を調整すれば全然戦える感じだ。
果てしない装備ドロップ厳選に怯えつつ、今は自由にビルドをとっかえひっかえ遊ぶことにする。

ダンジョンで敵の大群を殺しまくる。最大効率を求めてスキルを回す。バフ時間を管理して、敵のAoEを避けて、忙しなく。
ポーチがドロップ品でいっぱいになったら、街に戻る。いるもの、いらないものを整理する。新しく拾った装備の能力と、自分のいまつけている装備の能力を見比べて、装備を更新したり、しなかったりする。
「ディアブロ」を遊ぶときの基本的なサイクルだ。そこには緩急がある。リズムがある。
殺戮とビルドのシステムを彩る、フィールドの雰囲気。BGM。
街の住人の台詞から、ストーリークリア後の世界の変化を感じる。世界を救った英雄として、あるいは大聖堂の敵となった主人公。
エンドロール直前に、物語の最初で主人公を救ってくれた大聖堂の司祭に襲われ、殺す場面がある。なんとなく、「ゴーストオブツシマ」のラストを思い出した。

「Diablo Ⅳ」はマラソンだろうか

「Diablo Ⅳ」を遊んでいる。Diabloはハクスラの古典。元祖ですらあるかもしれない。
ハクスラという名前がついたのはいつだか知らない。
Diabloは初めは単にDiabloで、ハクスラではなかっただろう。しかしやがてゲームのいちジャンルとしてハクスラという言葉が通じるようになった。

Ⅳは結構走らされる。フィールド上の拠点から拠点へ、拠点からダンジョンへ。
キャラクターの徒歩で移動する距離が結構長い。移動時間が長い。前作はそうでもなかった気がする。

広大なフィールドをめちゃくちゃ走らされるゲームは、「マラソン」と揶揄されることがある。単調な移動がずっと続く、マラソンしたくてこのゲームをやってるわけじゃないんだが、というニュアンスだ。
では「Diablo Ⅳ」はマラソンだろうか。
おれはまあまあマラソンだと思う。移動が長いなあと思う。
ただまあそれでも、フィールドの作り込みはかなりいいもので、ただただ退屈な移動というわけでもない。足場の感触、建物の具合。そういうものを味わうことができる。
特に砂漠のフィールドが一番いい。砂丘の勾配を上って下って、サフサフ走る。
砂漠というとイメージするあの、吹き溜まった砂がなす鋭利な稜線、刃物みたいな砂丘。それを上ったり下ったりできる。綺麗だった。

移動時間が長いゲーム、「ゼノブレイド」。
ぼくが遊んだゲームで、プレイ時間に占める移動の割合が一番長かった気がするゲーム。
すごい距離を走らされた。ずっとえっほえっほと走るシュルクの背中を見ていた。Switch版にはオートランの機能(操作をしなくてもキャラクターが一定の方向へ走り続ける)があったが、たいして使わなかった。とにかく走って走って走りまくった。

「ゼノブレイド」がものすごいマラソンゲーなのは、明確な演出なのだろうと思う。
”巨神“という人の形をした存在のその表面に、人が生き、動物が生き、街があり、山がある。ゲーム中で時々言われる「巨神の膝あたり」とか、そういうスケール感の表現。
広大な世界のようで、巨神というただ一つの、文字通り手のひらの上。それでも人間にはあまりに大きな世界。
ゲーム終盤の“巨神”のありようが、ここまでのマラソンによって、ものすごくドラマチックになる。だからぼくは最終的に、「ゼノブレイド」のマラソンを不快には思わなかった。

「Diablo Ⅳ」はどうやら馬に乗れるらしい。10時間くらい遊んでストーリーもたぶん中盤、どうやらそろそろ解禁らしい。
……ということを知っているのは、待ちきれずに攻略情報を見たからだ。
正直にいうとちょっとマラソンに飽きている。マラソンだなあ、と思い始めている。だから、早く馬に乗りたくて、馬がいつ手に入るのか知りたくて、ロラスのおっさんだけがぼくをよそに馬に乗っているのが許せなくて、解禁のクエストがいつやってくるのか調べた。

「Diablo Ⅲ」は最終的に、バーバリアンのおっさんの両手に武器を持たせて、コマみたいにグルグル回しながら、歩行速度の5倍くらいの速さで竜巻の如くダンジョンを駆け抜け、2分そこらでボスをぶっ殺し、装備のドロップに興奮するゲームになった。
そこまでにいろいろな楽しみがあったことはもちろんだが、刃の竜巻と化したおっさんが敵を鏖殺するゲームになってからの思い出の方が多い。

今の所、Ⅳは結構ストーリーが楽しい。NPCに味があるし、本作の看板悪魔、リリスのキャラクターがなかなか良い。追いかけるべき敵が良いキャラクターをしているのはとても嬉しい。
きっとこれまでのシリーズにもれず、イカれた速度と火力で敵をぶっ殺しまくり、装備のオプション能力の厳選し、また装備を調整するのに必要な金銭素材等々のリソースを夢中で稼ぐゲームになってくるのだろう。その時までは、サンクチュアリの冒険をしっかり楽しむことにする。
「早く“あの”ディアブロの遊びがしたい。おっさん竜巻と化して敵をバラバラにしながら、時々ビカビカ光るドロップにヨダレをこぼして興奮する、あの“ディアブロ”がやりたい“」
そういう己の中の悪魔めいた欲はがんばって封じておく。

時に、いま、2024年のゲーマーに、「マラソン」という形容を伝えた時、たいていイメージされるのは、フィールドを走らされるほうのマラソンではないだろう。
どちらかといえば、ある報酬目当てに同じ敵を倒しまくるとか、「周回」のことをマラソンというだろう。
そう考えると「Diablo Ⅳ」ではふたつのマラソンを楽しめる。
このゲームのどちらのマラソンも、結構楽しいはずだ。

「このゲームでまだ遊びたい」 — アクションゲームについて

僕はアクションゲームを、キャラクターを気持ちよく動かすために遊んでいる。
ステージや敵や装備はそのお膳立てをしてくれるものだ。
極めてシビアな操作精度を要求されるアクションゲームも好んで遊ぶ。「Dead Cells」とか、「Hyper Light Drifter」とか、「Momodora」とか好きだ。

いわゆる高難度アクションゲーム、みたいなものが好きなのかもしれない。敵の攻撃を見極めて、高い精度で回避と攻撃を刻んでいくようなやつ。
でも、難しいものが遊びたいのではない。難しいのをクリアするだけがアクションゲームではない。
難しいアクションゲームには独特の気持ちよさがある。敵のパターンを覚える。少ない隙に攻撃を叩き込む。針に糸を通して、さらにタイミングよく針を刺していくような、そういう精密なコントロールを繰り返していると、プレイに没頭できる。

高難度のアクションゲームを好んで遊ぶけれど、乗り越えるべき壁を求めているわけではない。ただ、気持ちよく踊らせてほしい。
気持ちよく踊るための一つの楽曲として、高難度アクションゲームというのがあるだけだ。
倒せなかった敵が倒せるようになる、できなかったことができるようになる。それはゲームで得られる楽しみの一つだ。

では、だいたいの敵を難なく倒せるようになった後、このゲームをどう遊べば良いだろう。
ゲームをやりこみたいと思うゲーマーのある悩みがここにある。

あなたは面白いと思ったゲームをひととおりクリアした。では、さっさと次のゲームを遊ぶ派だろうか。
たぶん、そうでもない、と答える人の方が多い気がする。
自分はこのゲームが好きだし、もうちょっと遊べるんじゃないか?そんなことを考える人は少なくないはずだ。
これを未練がましいと言えばそれまでなのかもしれない。

どうしてこのようなことを考えるのだろう。達成率とかが表示されて、まだ遊んでいない要素があることがわかるから?回収していないイベントがあるのを知っているから?
僕は違うと思う、というか、むしろ、「達成率」とか「回収したくなるイベント」とかは、手段であって方法ではないと思う。
どういうことかというと、ゲームは本来的に、「もっと遊びたくなる」ものだから、その「もっと遊びたい」にどうにか答える方法が達成率という要素であり、一周しただけでは回収しきれないイベントであったりする、ということだ。

「もっと遊びたくなる」のは、ゲームが、特にアクションゲームは、動かすだけで遊べるからだ。
揃える気がなくてもルービックキューブをカチャカチャやるのが楽しかったりする。ねり消しをずっとこねたりするのは気持ちいい。
同じように、アクションゲームはキャラクターを気持ちよく動かせるように作られているから、動かすだけで遊びになる。
クリアするべきステージや倒すべきボスがなくても、キャラクターを動かすだけで、ルービックキューブをカチャカチャやる程度、あるいはそれ以上の遊びにはなるのだ。

ある配信者が「ダークソウル」を遊んでいるときに、こんなことを話していた。
「もう自分このゲーム目つぶっててもクリアできそうなくらい遊んでるからさあ、なーんかこう、配信したいなー、喋りたいなー、でも喋るだけでもアレだしなー、って時にちょうどいいんだよね」
その人は素っ裸でロードランを駆け抜けて、2時間ちょいくらいでクリアして配信が終わった。その間中ほとんど雑談配信みたいな感じで、いろいろ喋っていた。
これなんか、アクションゲームがもうなんか、手元が寂しいから動かすとか、そういうものになっている例だ。
べつに配信者じゃなくても、ただ一人で遊ぶだけでも、別にやることも思いつかないしちょっと座ってあのゲームでもやるか、というときがある。
ゲームを遊ぶことが先にあるのではなくて、暇が先にあって、慣れたゲームを取り出す。
遊び慣れたアクションゲームはそういうものになっていく。アクションゲームは、そういう遊ばれ方をする。

口寂しいといってタバコを吸うように、すでに十分遊ばれたゲームが遊ばれることがある。
こういう時に、せっかくだからとモチベーションをくれるのが、「達成率」であったり「未回収のイベント」であったりするわけだ。もしかするとタイムアタックやスコアアタックも、そういうものであると言っていいかもしれない。

慣れ親しんだアクションゲームでまだもう少し遊びたい。手近なタバコを手に取るように。
そういうプレイヤーの気分に寄り添うシステムがあるわけだ。

ところで僕は今、「アーマード・コア Ⅵ」をまた遊びたくなっている。しっかり全ミッションクリアしたけど、もう一回遊びたい。
早速ゲームを起動した。手触りの良さに驚く。動かしているだけで楽しい。
このゲームを初めて遊んだ時は、ブースト移動がめちゃくちゃ滑るので驚いた。止まろうと思っても止まらない(任意の場所でピタッと止まることを要求されるゲームではない)ので戸惑ったんだけど、慣れると楽しい。
「アーマード・コア」シリーズは機体のアセンブル、組み替えができる。それは前情報として知っていた。
買って遊んでみたら、「組み替えができる」なんてものではなかった。組み替えそれ自体がゲームの主要な遊びの一つだったのだ。機体のアセンブルには、ミッションや物語と同じくらいのカロリーが含まれている。

アセンブルをごっそり変えた機体は、まったく違うものになる。基本の地上ブースト移動、すなわちコントローラーで言えば、左スティックをたおしたときのフィードバックから全然違う。
一新した機体で同じミッションをもう一度遊ぶことができる。これは、先に言った、「慣れ親しんだゲームでもう少し遊びたい」の気持ちに対して、十分なモチベーションをくれる。
僕は「アーマード・コア Ⅵ」でもうしばらく遊ぶことができる。

慣れ親しんだゲームでもうしばらく遊びたい。その気分の極致のひとつが、RTAの世界かと思う。RTA in Japanなんかをみていると、やっぱりみんな「このゲームが好きで」と言う。
そうして好きなゲームを遊び続けた結果、ほとんど誰にも真似できないようなプレイができるようになる。
それは、ただ操作技術が身についたというだけではない。
普通一般のプレイヤーが見出すことのなかった楽しみを、彼らはそのゲームに見出しているのだと思う。僕らがふつうに遊ぶこのゲームと、RTAのトップランナーである彼が愛してやまないこのゲームは、同じようで同じものではない。
気が狂うほど難しいプラットフォームアクションをわけもなげにこなす。上手いこと難所を抜けるや、「やったあ〜」と、無邪気に喜ぶ。そんな走者の姿なんかを見ると、僕はそんなことを思う。このゲーム10年以上も遊んで、そんな新鮮な喜び方ができるんですか、と。

ゲームから与えられた要素をただ受け取る段階。初見プレイとか、そのへんだ。これがゲームのもっとも美味しい部分、トロの部分、歌のサビの部分であると思う。それはもちろんだ。
しかしずっと同じゲームを何年も楽しく遊ぶ人は、ゲームの要素のほうへ、自ら楽しみを生じさせ、それをまた自ら楽しむようになっているのではないかと思う。自給自足的。
この楽しみはおそらく、滅多に生じない。
ゲームに「ハマる」ことがある。でも、これはハマるのとは違う。「ハマる」というのは与えられたものの刺激的な部分が、自分になにか制御不能な感覚をもたらしていることをいうからだ。
対して、自らゲームに見出し与えた楽しみは、静かにただ、自己の中で完結しながら楽しまれる。そしてそれはおそらく、終わることがない。
そのゲームをやらなくなることがあっても、それはたぶん楽しみが尽きたわけではなく、ただなんとなく、別のことがしたくなったから、だろう。

最近はよく、発売されてしばらくしたあとから、アップデートやDLCというかたちで新要素が追加されることがある。あるいは、定期的な新要素の追加を前提として”運営”されるゲームも少なくない。
プレイヤーはそれを心待ちにしている。それは、「好きなゲームでもっと遊びたい」からだ。僕も「エルデンリング」のDLCの情報を見てウキウキしているし、「スプラトゥーン」をいちばん長い時間遊ぶのはシーズンが変わった直後だ。

既存の要素を味わい尽くした頃にDLCがやってくる、そうして「延命」されたゲームを遊び、また新しい要素を遊び尽くしてたいらげて、その頃には別のゲームが気になっている。
こうした遊び方、消費のしかたがもうあたりまえになっている。
RTA in Japanでみたあの走者のことを思い出す。
ひとつのゲームを十数年と楽しく遊び続け、ひとつのゲームに自ら楽しみを見出しつづける走者たちのことを思う。
僕はちゃんとゲームを遊べているだろうか。与えられたもの消費するだけになってはいないか。
それを確かめたいから、また、遊び慣れたあのタイトルを起動するのだ。

メカニクスを理解する — Remnant: From the Ashes ②

僕は昼飯に定食を食べる時、一番安いのの一個上を選びたがる。店で適当にウイスキーを飲む時、角じゃなくてメーカーズマークを頼みたがる。
初めて遊ぶアクションゲームでは、難易度をノーマルの一つ上にする。
ちょっと良いものを食べたり飲んだりしたい。おれにとって難易度「ハード」というのは、そういうものだ。

さて戦闘のチュートリアルも兼ねた感じのイベント戦が終わり、本格的にキャンペーンがスタートする。
基地からフィールドへ出るゲートがあり、そこから難易度を選び、一連のステージを順に進めていくようだ。
おれはとりあえず難易度をHardに設定する。ちなみに難易度は更に上に二つあり、Hardは下から数えて二番めだ。

フィールドへ出て歩く。さっきまでの基地とは違い、屋外で、空が見える。市街地だ。建物はほとんど壊れ果てており、人の姿は見えない。
けっこう歩く速度が遅いゲームだ。感覚としては「バイオハザード」の歩行くらい。カメラとキャラクターの位置も大体そんな感じだ。つまり、画面に映る範囲は意図的に制限されており、背後を警戒するにはしっかり振り向かなければならない。そして、軽快に走るにはスタミナを消費しなければならない。敵にビビりつつ、しかし一撃で頭を吹っ飛ばす程度の火力はこちらにもある。
そういうバランス。

歩いていると雑魚敵が徘徊しているのが目に入る。
探知されるまえに撃ち抜こうと思ったが、けっこうすぐに気づかれた。
すばやくハンティングライフルを構える。左トリガーでエイムする。射撃。しっかり頭に当たり、百数十のダメージ数値とともに敵は倒れた。
一体がこちらを探知したので、周辺の数体もこちらに向かってくる。脚を撃つ。しっかり転んでくれた。嬉しい。僕は部位破壊というのが大好きである。前に転んでこちらにむき出しの頭にもう一発撃ち込んでやった。
敵が刃物を投擲してくる。ローリングで回避しつつ、距離を詰める。近接攻撃のチャンス。
銃を撃つゲームではあるが、近接攻撃はけっこう範囲が広く怯みがとれて、当然弾薬も消費しないし、威力もまずまずある。というかたいてい、銃を撃つゲームの近接攻撃は、振れる場面では銃を撃つより強いものだから、これも例に漏れず高性能だ。
雑魚敵の群れを初めてさばいた。なんだ、難易度Hardというわりに楽だな。

マンホールが輝いているのが見える。なるほどダンジョンの入り口である。下水道。お約束だ。
下水道に入る。チェックポイントで弾薬等々回復して、先に進む。
下水道というのは古今東西のゲームで不快なエネミーを登場させるためのうってつけのロケーションだ。「ダークソウル」の最下層とか。「メタルスラッグ」なんかでも、そんなステージがあったような気がする。
まあ、なんかやべえのが出てくるんだろうなという予感にビビりながら、下水をかきわけ進む。果たして予感は的中する。
膨れた丸いやつ。ピンク色のマタドガスにずんぐりした短い足が生えていると言えばほとんど伝わるだろう。そいつが叫びながら走り込んでくる。僕は直感した。こいつは自爆する。
対応が間に合わなかったので、闇雲に近接攻撃を振る。そいつは倒せたが、やはり爆発して手痛いダメージと毒的な状態異常のガスを残していった。こうしてこのゲームで初めて死んだ。

リトライはあのチェックポイントから。死亡演出からリスポーンまではかなりスピード感がある。
雑魚に紛れて突っ込んでくる自爆マタドガスに僕は散々苦しめられる。何度も死ぬ。何度も死につつ、徐々に下水道の奥へ奥へと進むことができるようになっていく。
ここで気がつく。なにもあわてるようなゲームではない。自爆野郎も遠くから探知前に撃ち抜けば無害だ。スタミナを消費して走るのなどいっそやめてしまえばよい。のんびり歩きながら、見えた敵を順番に撃っていけばいいではないか。
目論見はうまくいった。未踏の領域へとたどり着く。
なんだ、こういう感じで進めば良いのか。このゲームはそういう感じなのか。
ちょっと肩透かしをくったような気分だ。

すると聞いたことのないSEがヘッドホンから聞こえてきた。
甲高い、金属が擦れるような大きな音。
ゲーム内のオブジェクトがたてる音ではなく、システム的な警告音であると理解した。

何かが来る。

しかし慌てることはない。ゆっくり進めば良いのだ。たまに後ろを警戒しながら。
後ろを振り向く。何かいる。
両手に巨大な刃物を持っている。人型。自爆マタドガスとは全く異なるタイプの脅威であることが一目でわかる。そいつはゆっくりゆっくり歩いて、こちらに近づいてくる。
ライフルを構え、頭目掛けて撃った。
“Resist”の文字。もう一発撃っても同様だ。刃物で弾丸を弾いている。冗談ではない。銃を撃つゲームで、銃に完全な耐性があるとでもいうのか。
致死的な存在であることが明らかになったので、僕はスタミナを消費しつつダッシュを始める。飛び出してくるのはやはり自爆マタドガス。突然現れたそいつの自爆をまともに受ける。
吹き飛び転ぶと、さっきの致死的な存在が目の前にいる。ええいままよと近接攻撃を試みる。なんかダメージが入ったかどうかもわからない。わからないまま死んだ。

僕は理解した。ゆっくり歩いていると、あいつが迫ってくる。あいつは僕がチェックポイントを出て、歩き始めて、どこかの時点で僕の遠く背後にスポーンし、ゆっくり迫ってくる。自爆マタドガスにびびっていると、あいつに追い付かれる。
つまりこうだ。すばやく走り、自爆マタドガスをテンポ良く処理しつつ、この下水道を抜ける必要がある。
僕は戦術をそのように変えて、ダッシュと回避、射撃、を織り交ぜる。
時折スタミナ回復のために立ち止まり、不意に遭遇した自爆マタドガス以外の雑魚は近接攻撃で処理した。
走る。敵が見える。撃つ。敵の足が止まる。もう一発入れる。背後を見る。別の敵。マガジンの残弾が少ない。攻撃を回避しつつ懐に潜り込み、近接攻撃を振る。また走り出す。
例の金属音が鳴る。“やつ”が迫っているらしい。早く、確実に敵を処理しながら進む……

下水道の出口に辿り着いた。
僕はこのゲームの面白さをようやく理解する。
すばやく走りつつ、全体的にコンパクトな射撃で敵を処理する。残弾数も気にしながら、近接攻撃も使う。ローリング回避からシームレスにエイムモーションがつながるので、回避、即、銃を構えて撃つこともできる。
そういうふうにエリアを抜けていくのが楽しいのだ。これはそういうゲームだ。

ゲームメカニクスの楽しさはそれで十分なのだが、ずっと陰気なだけのビジュアルはなんとかしてほしいなあなどと思う。
どこもかしこもくすんだ赤と茶色な感じで、BGMもあんまり。ただ、メカニクスの楽しさはよくわかったので、もうしばらく遊んでみることにする。